東の岸と西の岸が一年で最も近づく日。今日がその日だと知ったのは今朝だった。その中でも最も距離が近づくときがきたら、二人を繋ぐ橋を架けよう。そう天帝は朝日が昇るとともに告げた。ほんのわずかな間だけ、束の間の逢瀬を許す、と。 その言葉を聞いてからただひたすらに岸を見つめ、橋が架けられるそのときを待っていた。 ポツリ。窓を大きく開き、外を眺める頬に冷たいものが一つ。雨粒だ。そう思ったときには目の前は矢のように降る雨で覆われていた。 川は、橋は、彼は。それだけを胸に、何も考えずに飛び出した。雨に煙る視界、息も出来ない轟音の中をひた走る。 「…そんな」 いくら走っても岸には辿り着けなかった。あれだけ澄み渡り星々が煌いていた天の川は、今や濁流と化し岸を呑み込み、すぐ目の前まで迫っていた。夕立はじきに止み川が彼女を攫うことはなかったが、その濁った流れに新たな雫が落ちる。 「…もう会えないの?」 呆然と座り込んで呟いた。氾濫した川に橋を架けることはきっと叶わないだろう。痛いほどの雨に打たれて冷え切った体と心が震えた。 「会いたいよ…!」 涙の雨を降らせながら、愛しい人の名を呼んだ。 「ヤーコプ兄さん!!」 「どうした、ヘンリエッタ」 怖い夢でも見たのか、と優しく包み込むように問いかける声。驚いて声の方を向くと、困惑したような笑みを浮かべたヤーコプの姿があった。一体何がどうなっているんだろう。膝の上に置いた握り拳の上にポツリと冷たいものが落ちた。 「…雨?」 ヤーコプと隣同士で木に背を預けて座ったまま、空を見上げる。眩しい木漏れ日は降り注ぐけれど、目に痛いほどの青空には雲一つない。気のせいだろうか、と首を傾げた少女の頬を両手で包み込み、お前の涙雨だよ、と囁いた。親指の腹で痛くないように慎重に目尻を拭ってやる。慈しむような手に甘やかされたまま座っていると、段々と思い出しきた。 「あれ、私、兄さんに本を読んでもらってたのよね。 …もしかして寝ちゃった?」 「ああ、だがお前が途中で眠ってしまうのはいつものことだからな。気にせず夢の中のお前に読んで聞かせていたんだが… 突然お前が泣き出すものだから、驚いて心臓が止まるかと思ったぞ」 冗談めかしたその言葉に、ヘンリエッタは小さく笑ってごめんなさいと言った。 夢だからかはっきりと思い出せないが、そのときの想いだけが胸に深く刻み込まれている。懸命に内容を思い出しながら、悲しみに溢れそうになる涙を堪えて、つっかえつっかえ見た夢を語って聞かせる。ヤーコプは決して急かすことはなく、黙って夢の物語に耳を傾けた。 話終える頃にはヘンリエッタは泣き出す一歩手前になっていたし、ヤーコプは考え込むような難しい顔をしていた。 「どうやらお前を泣かせてしまった大罪人は俺のようだな」 ややあってポツリと呟いた。ヴィルヘルムやルートヴィッヒに知れたら恐ろしいな、と首を振って膝の上の開いたままの本を手に、その続きを読み上げた。空いた手でヘンリエッタの頭をあやすように撫でる。その優しい声と仕種に涙は自然と引っ込んだ。 開かれたページを聞き終えたとき、少女の目はまん丸になっていた。 引き裂かれ、一年に一度しか会えない恋人たち。その一度きりの再会さえも許されず、涙を流した少女。 「この物語を夢に見てしまったんだろう」 「ええ、そうみたい… ねえ、兄さん。結局この二人は会えなかったの?これから先も一年に一度会えるかどうかも分からないの?」 身を乗り出して、真剣な眼差しで問いかける少女にヤーコプは微笑ましいと思い、同時に一抹の寂しさを覚える。物語の続きをねだるさまは昔と変わらず愛らしい。だがいつの間にかこの娘は、随分と大人びた顔をするようになった。いつかは目の前にいる少女も、この物語の少女のように、深く強く愛する者に出会うのだろうか。 「いいや、この後泣いている少女の下に、白く美しい翼に長い尾を持つ鳥が舞い降り、二人を繋ぐ橋になり、たとえ雨が降ろうとも幸せなときを過ごすんだ。 東方では二人が願い事を叶えてくれると言われていて、その日を祝う祭りもあるらしい」 「よかったぁ…!でも、たった一日しか会えないのに、みんなの願いを叶えてあげないといけないなんて大変よね。二人はそれでいいのかしら?」 「そうだな、遊び暮らした己のお互いを悔いての償いだという説もあるらしいが… きっと二人は一緒に過ごせるだけで幸せなのだと俺は思うよ。一目みることも、声を聴くことも叶わなかったんだ。互いに力を合わせてひとつのことを行うというのはきっと、語り尽くせないほどに幸福だったんではないだろうか」 本を閉じて、ヤーコプはそれに、と続けた。胸の前で手を合わせている少女に穏やかに見つめた。 「そうして幾年か経った後、天帝は一つだけ叶えることを約束するんだ。 なあヘンリエッタ、二人は何を願ったと思う?」 静かな問いかけに、ヘンリエッタは目を閉じて考える。 夢の断片と物語を繋ぎ合わせて考える。ようやく会えると思って叶わなかった絶望。差し伸べられた小さな希望に救われて、でも助けに縋るだけではなく互いに手を携えて生きていく二人。その姿を思い浮かべると、二人が願ったのはたった一つしかないような気がする。少なくとも自分なら。 「あの人を幸せにして下さい」 夢の中で呼んだ大切な人を幸せに。祈るように手を組んで呟いた。ヤーコプが一瞬目を見張ってから誇らしげに微笑んだことには気付かない。 「ああ、そうだ。 ただ相手の幸せを願う彼らに天帝は心を打たれ、もう一度だけ二人を信じることにした。そして二人は、みんなはいつまでも幸せに暮らしたという」 「素敵なお話ね。 ね、兄さん。その本借りてもいいかしら?私も読みたいわ!」 「残念だがこの本には載っていないんだ。今聞かせたのは別の本の物語だからな。数日中にお前に上げるから、少し待っていてくれ」 「ヤーコプ兄さん?」 ヘンリエッタはニコニコとしながら言い、 「何だ、ヘンリエッタ?」 ヤーコプも朗らかに答える。 「嘘ついてるでしょ」 「嘘じゃないさ。お前のために書かれた本だ。愛する人の幸せを願う、優しい心の持ち主が幸せになる物語だよ。 受け取ってくれるか?」 「もちろん!」 手を叩いて喜ぶ少女の頭を撫で祈った。 どうか、この娘の笑顔が絶えることのないようにと。 「お前は本当に姫や王子が出てくる話が好きだな」 「…兄さんまでルートヴィッヒみたいなこと言わないで」 「はは、拗ねないでくれ。悪いと言っている訳じゃあない。むしろ昔と変わらず本当に可愛らしいと思っているぐらいだ」 「か、からかわないで!」 「本心なんだがな。 何にせよ、お前に喜んでもらって俺もとても嬉しいよ。お前のように無垢な心の人が幸せになれるようにと願って考えたものだからな」 「もう、兄さんったらそればっかり。 …でもだったら兄さんもしっかり幸せにならないと駄目よ」 「どうして?」 「だってあれは優しい心の持ち主が幸せになる物語でしょ!」 ヤーコプ兄さん、大好きなんですけど…好きすぎてよく分からないことに。 とにかく兄さんも幸せになるべき!!ヤーコプ兄さんEDの話好きですけれど。 あと勝手に七夕の結末を変える兄さん…やりそうですよね。 back |